卑劣な暴力、脅迫には屈しない
2014-10-04


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話を戻そう。
さきに書いた大学への脅迫文。
自分の意見を押し通そう、言いなりになってもらおうと、学生を人質にして、自分と異なる考えを持つ者を力づくで排除しようという。これを放任したり座視したりしては、わたしたちが自由にものを言ったり話したり書いたりすることが許されなくなってしまう。

朗読に置き換えると、もし朗読が声だけであり声だけが朗読だ、といってしまったら、手話はなんだろう。手話も言葉でありコミュニケーションでもあるのだ。聴こえる人には意外かもしれないが、声と同じくらいに手話で語る朗読もあっていい。手話もまた声と同じように自由に表現できる手段であり方法なのだ。
コスモス朗読会では聴こえる人も聴こえない人も手話がわかる人もわからない人も聴きに来てくださる。そこでどんな思いを感じたかは自由であっていい。出演者もまたいろいろな思いがあるだろう。その自由な雰囲気自由な社会を大事にしていきたい。手話も含めた、多様な表現が舞台を豊かにしていくのではないだろうか。

多様な考え、言論や表現や価値観がいまの社会に交錯している。その交錯していることが大事なのであり、もし意見があるならそれを言論で言えばいい。あなたの意見はわたしと異なるけれども、あなたが意見をいう権利も場も認めていこう。それが大事なことだ。

あらためてわたしは言う。
このような卑劣な暴力、脅迫には屈しない。気に入らないからといって力づくで排除しよう暴力で言いなりにさせようというのは、はっきり言ってテロリズムである。
自由な言論、自分と異なる考え立場を尊重しあうことが生き生きとした社会をつくっていく。
わたしは障がい者としても人間としてもキリスト者としても、卑劣な暴力、脅迫には屈しないし許さない。
[commnication]

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