おのおのが生きた証、生きた意味が表れる
2007-06-10


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昨日からの疲れが今日も残っていておまけに明日は手話ソングダンスのレッスン予定。早朝に会社へ入らなければならないため、いつもよりかなり早めに眠りにつくつもり。

朗読の発表会で使いたいテキストをパソコンに打ち込んではみたが、なんだかしっくりこない。読みたいテキストではあるのだけれどこれでいいのかという思いがぬぐえない。
で、昨晩眠りにつきながらひらめいたのは、「アンネの日記」から抜粋しようかということだ。
第2次世界大戦終了から50年目の秋にわたしはポーランドのオシフィエンチム・ドイツ名アウシュヴィッツを訪れた。
何度も書いたことだけれど、衝撃は一生忘れることはできない。

秋晴れの空、太陽の日差しが差し込む強制収容所跡と収容者を運んだ列車の引き込み線路。収容者が銃殺処刑された処刑場と石の壁面に残る無数の弾痕。収容者の身代わりとなって薬物で処刑されたカトリックのマキシミリアン・コルベ神父。

極限の状況に立たされたとき、その人の存在と生きてきた価値、生きざまが如実に現れる。
いつかは誰しもが訪れる死という場面という意味で、平等であり共通しているのかもしれない。おのおのが生きた証、生きた意味が表れるのだ。

で、今日の礼拝。
聖書はマタイによる福音書16章24節〜28節。

ここにイエス弟子たちに言ひたまふ「人もし我に従ひ来たらんと思はば、己を捨て、己が十字架を負ひて、我に従へ。己が生命を救はんと思ふ者は、これを失ひ、我がために己が生命をうしなふ者は、之を得べし。人、全世界をまうくとも、己が生命を損せば、何の益あらん、又その生命の代に何を興へんや。人の子は父の榮光をもて、御使たちと共に来たらん。その時おのおのの行爲に随ひて報ゆべし。まことに汝らに告ぐ、ここに立つ者のうちに、人の子のその國をもて来るを見るまでは、死を味はぬ者どもあり」
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