「1か0か」ではなくて「1も0も」なのだ
2016-06-01


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みなさんはもしかしたらもうすっかりお忘れかもしれない。
2年前の2014年、ゴーストライター騒動で「現代のベートーベン」から一転「偽りの聴覚障がい者」と言われた佐村河内守氏のことだ。その佐村河内守氏を追いかけたドキュメンタリー映画「FAKE」と、彼ではなく、「ろう者の音楽」を視覚的にドキュメンタリーにした映画「LISTEN」がいま話題になっている。

FAKEで「佐村河内像が一変する」森監督が予言
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映画「LISTEN」
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もちろんわたしも2年前の騒動当時から、違和感はあった。彼を批判する思いはあった。聴覚障がいへの誤解を招いたという批判だ。
一方で、わたしはどうなのだろう。補聴器を外すとまったく聞こえない。けれど初対面の人が100人中100人といっていいほど、とくに聴者ほど「あなたがろう者だとは思えない。なぜならきれいに話せるから」と言ってくる。
その違和感の当事者であるわたしは、佐村河内氏を本当に批判できるのか。聴こえないという<見えない障害>と<きれいに話せる>ということ、ひいては世の中の障がい者に対する固まったイメージのために苦しんでいるという意味では、わたしもまたある意味佐村河内氏と同じなのではないかと。

「FAKE」を監督した森達也氏は、上の記事でこう語っている。

「聞こえるか聞こえないか、1かゼロか、という二者択一ではなくて、その間もあるということを言っておきたい。聴覚にはグラデーションがあって、彼は感音性難聴なので、全く何も聞こえていないわけではないけど、やっぱりゆがんで聞こえるんですよ。それを『全聾(ぜんろう)の作曲家』から一転して『聞こえないふりしたペテン師』っていうのは、どうかと思いますよ」

わたしもまた、補聴器を外したらまったく聞こえないろう者なのに世間のイメージとは異なるから、なかなか聞こえづらさが理解されにくい。声も大きいからなおさら。

森氏が言っているように、「1か0か」ではなくて「1も0も」なのだ。そのあいだでわたしは理解されにくいのかもしれない。
だからこそろう者の手話を身につけたいし、舞台でも表したいと強く願っている。

もしできたら、聴者もろう者も「FAKE」と「LISTEN」の両方を観ていただけたらと思う。
[commnication]

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