愛するということ
2012-10-14


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今日の礼拝説教は、気のせいか、わたしたちに向けて語られたような気がした。牧師にきくと「たまたま」だとおっしゃられたが。

『何が正しいのか』と題された、マタイによる福音書26章6節〜13節をテキストにした説教だ。

相手のすべてを受け入れ、すべてを守る。相手にすべてをゆだねる。
「わたしたちが人間に与えられた、愛するという豊かさは、相手を愛するということで見いだすことができる。相手の喜びの源となろうとする愛、この愛こそ、イエスの愛」。
口で言うのはたやすいことだし、いくらでも何遍でも言える。だが実行する実際にするのは、とても難しい。

シモンの家で弟子たちが「こんな高価な香油を使って」とたしなめた。それは合理的な正論であり、現実的な意味からは正しい。間違っていない。けれど、社会的な常識から外れた行為であっても、イエスさまは「こうであってはならない」という束縛からは自由であった。そしてイエスさまのためにしようとした最高のもてなしである、香油を注ぐという行為を受け入れた。

わたしたちは口にするほど大きな人間ではない。信仰自体がちっぽけなものかもしれない。
けれど信仰に大小も違いもない。

相手の喜びとなろうとする愛。
自分ではなく相手のために。

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