情報の保障を!
2009-03-05


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昨日、裁判員制度に関して、法律用語や裁判用語の手話表現が課題だと書いたばかりだけれど、ひとくちに「耳が聴こえない」といってもろう者から難聴者まで、さまざまである。ろう者は手話ができる。手話が第一言語。難聴者はわたしのように手話を使う人がいる一方で、高齢の人や病気、事故のために耳が聴こえなくなった人のなかには手話を学ばないあるいは学ぶ必要を感じない、という人もいる。
ひとことでいえば、難聴者におけるコミュニケーション手段は実にさまざまだ。

厚生労働省のサイトにある、<障がい者に対する情報・コミュニケーションなどの支援>という資料をみると、補聴器や人工内耳などの補聴機器を使うのが最も高く、79%、筆談や要約筆記が24・6%、手話が15・4%、読話が6・2%という報告がある(2001年)。これは8年前だからいまはもっと数字が違うかもしれない。
このサイトには
@聴覚障害は外見からはわかりにくい障がいであり、病院や職場などの個別場面や役所・駅などの公的な場面での重要なコミュニケーション、災害や事故などの突発的な場面での情報への対応が困難A個々の状況に応じた専門性の高いコミュニケーション支援へのニーズが高いB筆記によるコミュニケーション手段である筆談や手書きによる要約筆記をデジタル化する媒体には期待が高い。無線ネットワークを利用した遠隔地からのパソコン要約筆記など実用化の段階に入っている――などとある。
厚生労働省のサイトはこちらを。 
[URL]

たしかにここに挙げられているとおり、ほんとうに聴覚障がいは、分かりにくい。見た目だけではとても判別できないだろう。わたしだって話すだけなら聞こえる人とまったく変わりないから、初対面の人には「聞こえない人とは思えない」とよく言われる。もう慣れたけどね。けれどコミュニケーションへの対応が難しい。いまの職場では写真にあるような筆談器を使って下さるのでとても感謝しているのだけれど、社会に出て間もないころは、筆談をお願いするのでさえ神経をすり減らしたものだ。まして集音マイクや補聴器以外の機器を使うとなると、上司によってはあからさまに拒否されたことさえある。

もっとしんどいのは、裁判もそうだけれど会議などの進行がリアルタイムでつかめないこと。内容を筆談してもらって理解できたときにはとっくにその話題は終わってしまって、意見や発言をしたいと思っても、「それはもう終わった議題です」と言われたらはっきりいってお手上げ、どうしようもない。まして、進行状況がわからないということは、いつどんなタイミングで発言したらいいのかわからず、へんなところやおかしなところで発言してしまうのではないか、と心理的に迷ったり自分を抑えたりしてしまいやすい。聴こえない人たちの心理は、とても微妙、センシティブなものなのだ。いっそのことこころを抑えたりがまんしたりなんかしないで「わたしは聞こえません!」と声を大にして叫べたら、すっきりするくらいだ。

裁判員制度も、手話表現が完全に理解されたとしても冒頭陳述だとか検察官や弁護士の質問、被告の発言、被害者の意見陳述など、話されたとほぼ同時に内容がつかめるかどうか。はっきり言って不安が大きい。人の運命を左右しかねないから「適当に」なんていいかげんなことでは済まされない。

裁判員制度に限ったことではない。
めんどうだとか経費がかかる、という意見をよく聞くけれど、それは聞こえる人の一方的な、上から見下ろした意見であり、聞こえない人たちにとって自分たちを否定されたに等しい。
たしかに時間がかかり、非効率的かもしれないけれど、情報保障があることによって、聞こえる人も聴こえない人も、ともに社会にかかわっていることを実感することができる。聴こえない人にとってはなおさらだ。


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